宗務事務所
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実践運動

結ぶ絆から、広がるご縁へ

沖縄県宗務事務所とは、浄土真宗本願寺派という宗派における教区(沖縄県宗務特別区)という都道府県や地方ごとに置かれる管理上の区域においての事務所となります。
宗派の地方事務所や出先機関という意味合いの組織です。
一般寺院と宗門との中継ぎをします。

沖縄県宗務特別区(本願寺沖縄別院)
「御同朋の社会をめざす運動」(実践運動)
総合基本計画・重点プロジェクト

【沖縄特区・沖縄別院 総合基本計画】
実践運動とは、あらゆる人々が自他共に心豊かに生きることのできる社会の実現に貢献することを目的として、宗門を構成するすべての人々が参画し、いのちの尊さにめざめ、共に浄土真宗のみ教えを社会に広め実践して行く運動です。
専如ご門主が法統継承に際してのご消息の中で「各寺院にご縁のある方々はもちろんのこと、寺院にご縁のない方々に対して、いかにはたらきかけていくのかを考えることも重要です。本願念仏のご法義は、時代や社会が変化しても変わることはありませんが、ご法義の伝え方は、その変化につれて変わっていかねばならないでしょう」とお示しがあり、また、『伝灯奉告法要御満座の消息』においては「私たち一人ひとりが真実信心をいただき、お慈悲の有り難さ尊さを人々に正しくわかりやすくお伝えすることが基本です」と念仏者としての基本的なあり方をお示しになり、さらに『念仏者の生き方』の肝要を「私たちのちかい」として4ヵ条にまとめ、若者をはじめとしたこれまで仏教や浄土真宗にあまり親しみのなかった方々にも、様々な機会で唱和してほしいとお勧めくださいました。また、「国の内外、あらゆる人びとに阿弥陀如来の智慧と慈悲を正しく、わかりやすく伝え、そのお心にかなうよう私たち一人ひとりが行動することにより、自他ともに心豊かに生きていくことのできる社会の実現に努めたいと思います。世界の幸せのため、実践運動の推進を通し、ともに確かな歩みを進めてまいりましょう」とお示しになっています。
2023(令和5)年には親鸞聖人御誕生850年・立教開宗800年慶讃法要 をお迎えいたします。このご勝縁を機縁として、また、戦後70年を機縁とした宗門の平和へ向けた取り組みや特別区における実情を踏まえて、過去の歴史に学びながら、現代社会に生きていく念仏者として、非戦平和や人権の問題、貧困問題など、さまざまないのちに関する課題に取り組み、特に以下の項目を中心に実践運動の推進を計ってまいります。

(1) 特区重点プロジェクト「貧困問題」「非戦平和」「人権問題」の啓発
(2) 次世代を担う子どもたちの教化育成

【沖縄特区・沖縄別院 重点プロジェクト】

実践目標 ①「貧困の克服に向けて~Dāna for World Peace~」
-子どもたちを育むために-
沖縄の「子ども貧困問題」の学びから支援へ
②「非戦平和」悲惨な戦争からの学びと啓発
③「人権問題」沖縄の人権問題の学びと啓発
推進期間2020(令和 2)年度から 2023(令和 5)年度までの 4 年間
達成目標別紙記載
推進計画別紙記載

以上

沖縄県の寺院紹介

沖縄県内の浄土真宗本願寺派寺院紹介
沖縄県内には、下記一覧表のとおり、22ヵ所の寺院(布教所)があります。どうぞ、お近くのお寺を訪問してください。

沖縄県内寺院・布教所一覧

沖縄県内寺院・布教所住所録

▼住所をクリックするとMAPが表示されます。▼

寺院名 郵便番号 住所 電話番号
①大典寺 〒900-0032 那覇市松山1-9 TEL:098-868-3491
②与勝寺 〒904-2312 うるま市勝連平安名2884 TEL:098-978-2281
③球陽寺 〒904-0033 沖縄市山里3-7-1 TEL:098-933-6431
④誓願寺 〒907-0022 石垣市字大川821 TEL:0980-83-2279
⑤真常寺 〒904-0313 中頭郡読谷村字大湾464 TEL:098-956-2182
⑥円浄寺 〒905-0414 国頭郡今帰仁村字謝名115 TEL:0980-56-5525
⑦城徳寺 〒901-2316 中頭郡北中城村字安谷屋525-1 TEL:098-935-5309
⑧浄光寺 〒901-1303 島尻郡与那原町字与那原92-2 TEL:098-944-3710
⑨浄願寺 〒904-1106 うるま市石川2-18-1 TEL:098-964-2521
⑩中道寺 〒901-2222 宜野湾市喜友名1-15-11-2 TEL:098-893-6062
⑪浄善寺 〒905-0214 国頭郡本部町字渡久地919 TEL:0980-47-2133
⑫平安寺 〒905-0024 名護市字許田554-1 TEL:0980-53-6752
⑬平成寺 〒901-0311 糸満市字武富603-12 TEL:098-992-0696
⑭来恩寺 〒904-2201 うるま市字昆布1036 TEL:098-923-2157
⑮西然寺 〒903-0116 中頭郡西原町164-1 TEL:098-946-6884
⑯浄福寺 〒904-2241 うるま市字兼箇段1739番地7 TEL:098-974-7200
⑰法谷寺 〒904-0202 中頭郡嘉手納町字屋良747番地1 TEL:098-956-0820
⑱八重山本願寺布教所 〒907-0004 石垣市登野城68 TEL:0980-82-8207
⑲喜宝院布教所 〒907-1101 八重山郡竹富町字竹富109 TEL:0980-85-2202
⑳光玅寺布教所 〒904-2141 沖縄市池原1-16-32 TEL:098-937-2126
㉑西法寺名護布教所 〒905-0019 名護市大北4-18-40 TEL:0980-43-0660
㉒本願寺沖縄別院 〒901-2132 浦添市伊祖5-10-1 TEL:098-877-3276
㉓沖縄県宗務事務所 〒900-0005 那覇市天久2-18-2 TEL:098-860-7009
㉔久米島布教所 〒901-3124 島尻郡久米島町仲泊1068-3 TEL:098-985-2271

宗派の紹介

本願寺沖縄別院(浦添本願寺)は、浄土真宗本願寺派の寺院となります。
浄土真宗本願寺派(京都・西本願寺)の紹介をいたします。

  • 本願寺の歴史
  • 本願寺の歴代宗主

全国には、約10,000カ寺のお寺があります。

沖縄県宗務事務所の歴史

沖縄における浄土真宗の歴史

(1)一向宗禁制

1609年から琉球は薩摩の支配をうけるようになる。1636年には、薩摩の命令によりキリシタン禁制のための宗門改め(琉球では宗門改めのことを「手札改」とか「札改」といった)が行われたが、琉球では寺請制が採用されなかった。また、1659年、薩摩は琉球に対し、キリシタン禁制とともに、一向宗も禁制する旨の起請文を提出させた。

「琉球仏教史の研究」知名定寛氏著・榕樹書林発行 参照

(2)琉球への一向宗伝播

沖縄を代表する史学者、伊波普猷(いはふゆう)氏によれば、琉球への一向宗伝播が確認されている最古の史料は、西本願寺学林の第6代能化職であった越前平乗寺の功存師が、1789年に琉球の尼講宛てに記した書状である。その書き出しに「宗祖知識の厚恩を祟重せらるゝによりて、遠国より年〃志しを運れ候事、随喜かきりなく覚候」とあるから、一向宗の琉球伝播は、1789年より数年は遡ることになる。琉球の尼講というのは正式名を中山国尼講(ちゅうざんこくあまこう)といい、辻遊郭の遊女たちを中心に結成された信者の寄り合い組織のことで、その成立過程についてはよく分かっていない。

「琉球仏教史の研究」知名定寛氏著・榕樹書林発行 参照

(3)講の結成

琉球では、1851年までに、前述の中山国尼講、中山国歓喜講、中山国御戸帳講、後述する中山国廿八日講が結成されていた。中山国尼講の取次ぎ寺は大阪の浄徳寺、中山国御戸帳講は筑前の重誓寺、中山国廿八日講は京都の正光寺であった。中山国歓喜講について詳細は分かっていない。

「沖縄宗教史の研究」知名定寛氏著・榕樹書林発行 参照

(4)法難事件

①第1次法難事件
1824~1825年頃、知念仁屋(ちねんにや)氏が、薩摩から一向宗の本尊を持ち帰ったが1839年にそれが発覚し監禁された。

②第2次法難事件
京都の正光寺より薩摩久志浦の中村家(那覇の仲尾次家の本家)へ贈られた御本尊と経典が子孫の仲尾次政隆(なかおしせいりゅう)氏へと密かに伝えられていたと、伊波普猷氏の著書「真宗沖縄開教前史」に紹介されている。仲尾次政隆氏は、正光寺の八木正蔵(やぎしょうぞう:薩摩における偽名)師と文通し教化を受け、西本願寺から「釋了覚」という法名を授けられている。
仲尾次政隆氏は、厳しい一向宗の取締りの中、辻遊郭の亀という者の家に御本尊を安置し、人々を集め布教伝道に励み、1835年には、中山国廿八日講を結成するまでに信者の数が増加していった。信者の増加にともない、拠点を自宅に移している。
しかし密告により、1853年に捕らわれの身となり、1855年、仲尾次政隆氏は、八重山へ無期流刑となった。また、300余名の信者もそれぞれ、島々への流刑、所払い、寺入り、罰金刑に処せられた。仲尾次政隆氏は、配所の石垣島で宮良橋を再建するなど社会公共に尽くし、官民の赦免請願によって、1864年に赦免となり、その翌年に那覇へ帰り着いている。
現在、宮良橋の端に仲尾次政隆氏等の功績が記された頌徳碑が建立されており、大谷尊由様(明治41年~大正元年まで執行長)がその石碑の題字を書かれている。

③第3次法難事件
第2次法難事件の時、商用で奄美大島へ渡っていた備瀬知恆(びせちこう:仲尾次政隆氏の秘書役だった)氏は、島々に流浪して難を避けることができた。1861年に琉球へ戻り、心安き人々に御本尊を礼拝させた。1876(明治9)年に、来琉した最初の真宗僧侶の田原法水師(大谷派)に出会い、布教に専念した。
1877(明治10)年に信仰が露見して、360余名の信者が琉球王府に検挙された。備瀬知恆氏は、八重山流刑10年に処せられるが、配所に向かう途中で難船したために亡くなった。沖縄開教における最初の殉教者である。
この事件は、1876(明治9)年に明治政府が鹿児島県に対し真宗解禁を命令した後だったので、東本願寺使僧の小栗憲一師と琉球王府との間で談判があり、その訴えによって、琉球王府は明治政府の譴責を受け、その信者に対する刑を取り消している。
「浄土真宗本願寺派沖縄開教の歩み」本願寺沖縄開教事務所発行

「沖縄宗教史の研究」・「琉球仏教史の研究」知名定寛氏著・榕樹書林発行 参照

戦前の沖縄開教の歴史

1876(明治9)年9月5日に鹿児島県で真宗解禁され、琉球でも1879(明治12)年に解禁された。1879(明治12)年は、明治政府による琉球処分があり、琉球王国が歴史を閉じて、沖縄県に指定された年でもある。
浄土真宗本願寺派の開教は、その1879(明治12)年、大河内彰然師(宮崎・願心寺)の来沖に始まる。
1898(明治31)年、亀井慈雲師(鹿児島・善行寺)が大河内彰然師に続いて来沖し、1910(明治43)年まで13年間にわたり、那覇で民家を借りて布教活動をした。
1910(明治43)年、菅深明(すがしんみょう)師(鹿児島・光永寺)が本山の命を受け来沖し、那覇上ノ倉、湖城氏宅を借り那覇説教所を開き布教活動を始めた。1911(明治44)年に説教所を那覇松下町に移転、来沖した商人や官吏を対象に布教した。1918(大正7)年に那覇松山町に本堂を建立し、大谷尊由様をお迎えして、入佛・落慶法要が厳修された。寺号を聖徳山大典寺と公称し、初代住職に菅深明師が就任した。
菅深明師は事業として、1912(明治45)年、私立沖縄感化院、中城湾布教所(後の光照寺)を開設。1918(大正7)年、私立沖縄家政女学校(後の積徳高等女学校)を設立。1919(大正8)年に西表説教所、1921(大正10)年に八重山布教所、1922(大正11)年に嘉手納布教所、1938(昭和13)年に本部説教所(後の本照寺)を開設した。
太平洋戦争が始まり、1944(昭和19)年10月10日、米軍機による那覇大空襲により、沖縄開教の本拠地であった大典寺も那覇市の炎上とともに灰塵と化した。1945(昭和20)年3月からの沖縄戦、4月1日からの沖縄本島地上戦により、全島が戦場となり、布教活動は一切停止に至った。

「浄土真宗本願寺派沖縄開教の歩み」本願寺沖縄開教事務所発行 参照

ふじ学徒隊(沖縄に仏教精神に基づいた高等女学校が戦前にあった)

1944(昭和19)年10月10日、那覇大空襲により那覇市の90%が焼失した。那覇市美栄橋にあった積徳高等女学校の校舎は日本軍が使い、生徒は陣地構築や戦車壕掘り、砲弾磨きなどに従事させられた。1945(昭和20)年3月には、4年生が第24師団山部隊の衛生看護訓練を受けた。150人中半数以上が疎開していたため56人だけであった。そして、3月23日、米軍の猛爆撃が始まり、56人は豊見城城跡にある小池隊第2野戦病院(隊長:小池勇助軍医少佐)に配置され、到着後に入隊の可否の調書がとられ25人が入隊した。
 積徳高等女学校の校章が「さがり藤」であることから「ふじ学徒隊」と呼ばれた彼女たちは、衛生兵の補助にあたった。
 4月1日、沖縄本島への米軍上陸が始まり、空からは空爆、海からは艦砲射撃、陸からは銃撃・迫撃砲と戦況は悪化。米軍が迫り、野戦病院の撤退が決まった。
 5月27日、南部に向かい約8キロ南の糸洲の壕に避難。
 6月17日には米軍に壕の存在を知られ、壕の入口からガス弾が投げ込まれるようになった。
 6月26日夕方、突然、学徒隊全員が集められ、小池隊長から解散命令が出された。その後、学徒隊は少人数に別れ壕を脱出。ふじ学徒隊25人中、悲しいことに3人の戦死者を出した。ほとんどが米軍の捕虜となり、生きて親元に帰っていった。学徒隊を見送った小池隊長は壕の中で自決した。
 沖縄戦に動員された女子学徒隊10校およそ500人。学徒隊には6月18日に解散命令が出されたが、小池隊長は、戦闘の沈静化を待つため解散命令を伏せていたという。18日に戦場へ投げ出された「ひめゆり」「白梅」などほとんどの学徒隊は半数近くの戦死者を出した。
 積徳高等女学校は、沖縄戦により、28年の歴史を閉じ廃校となる。
 現在、大典寺境内に積徳高等女学校慰霊之碑が建立されている。

「本願寺新報(2012.8.1)」本願寺出版社発行 参照

苦難にみちた沖縄の歩み

太平洋戦争により、沖縄全島が戦場となり、八重山本願寺布教所を除く、寺院、布教所が戦火を受けて、これまでの教化活動が、ほぼ壊滅状態になった。
 沖縄戦は太平洋戦争の中でも、もっとも悲惨な戦争の1つと言われている。わずか3か月足らずの間に、20万人以上の尊い生命が奪われた。しかも、その半数は、非戦闘員であった沖縄の乳幼児から老人に至るまで、すべての人々であった。
 終戦後、沖縄は、日本から分断され、米軍の直接統治下におかれ、米軍軍事基地建設に、沖縄の土地があてられた。

「浄土真宗本願寺派沖縄開教の歩み」本願寺沖縄開教事務所発行 参照

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